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8月15日でした。「学徒動員」されていた母。

戦後生まれの者、戦時下を実体験していないものは、その悲惨さ、あらゆる悲劇や不条理をできる限り、先人から聞き出し、それを後世に伝えることもしなければならないことと考えざるをえない、8月15日です。

現在、92歳の私の母は、加齢とともに、いろんな記憶を少しずつ失っているようですが、1944年(昭和19年)、神戸の女学校に通う四年生として当時の国鉄・鷹取工場で電車の部品などを鋳物で作る作業に従事させられていた、という話はこれまで何度も聞かされてきました。当然のことながら、女学校での授業はそのころ行われず、ただ、工場に通う毎日だったのです。

鷹取工場で母たちの学校と同様に鷹取工場に動員された滝川学園(滝川中学)の同窓会のサイトには、

1944(昭和19)年 第3学年以上の通年動員きまる、戦時非常措置、学徒勤労動員令により第5学年は神戸内燃機会社に100名、山陽電鉄会杜に60名出動、第4学年(202名)は国鉄鷹取工場に出動、第3学年(138名)は、帝国精密会社に出動、第1、2学年は 非常時体制に即し学校残留。(滝川学園同窓会「同窓会の歩み」より)

と詳しく、動員された人数まで記録されています。

母は「国鉄の工場よりも、みんな川西航空とかに行きたかったんや」

私「なんで?」

母「飛行機の方がかっこええやん、と思って」

1945年4月、平時なら女学校の最終学年である5年生に進級のはずですが、強制的に、全員、4年で卒業させられ、戦火がますます激しくなる中、母は、京都の女子専門学校に進学したのでした。

神戸市の戦災体験談のサイトの記事によると、敗戦の年の7月24日、「川西航空本社工場がB29爆撃機と小型機150機による大爆撃を受け、工場は瓦礫の山となり、工場内の防空壕では婦女子(※ママ)や職工など83名が犠牲となられた」とあります。

すでに3月、6月の大阪、神戸の大空襲、西宮市も含めた多大な犠牲者をだしてしまってなお、降伏への決断にいたらず、その結果の7月の空襲。そして、8月の広島、長崎への虐殺といっていい、無辜の市民の大量殺戮を許してしまったといっていいでしょう。いずれも、市民への大量虐殺行為として、決して許されるものではありません。

改めて、「政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないようにすることを決意」(憲法前文より抜粋)したいですね。

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